2020年1月29日水曜日

りんご不足で地元市場の高騰続く

2019年産リンゴ在庫 2011年産に次ぐ2番目の少なさ

http://www.atv.jp/news/?id=00008257

1月29日のニュースです。
やはりりんご不足のようです。


地元市場でも、傷ものなど加工向けのりんごの値段が平年よりも1000円以上高いような話を聞くようになりました。

近くの加工業者にも長野ナンバーのトラックがいつも停まっていたそうです。



インターネットの販売サイトを見た感じでは、値段は平年とほぼ変わらないように感じますので、私も昨年とほぼ同じ金額で販売しています。

傷物は1円スタートでヤフオクで競売していて、即決価格を平年より高くしているぐらいです。

青森県内の太平洋側は台風の被害はほぼ無かったのですが、ふじが小玉だったので、我が家もですが、他の農家も在庫が少ないそうです。


昨年は、3月までりんごの販売をしましたが、今年は残りの在庫を見ると1ヶ月で十分売れる分しかないです。

我が家の在庫は、
糖度15度以上の熟度が低いもの
糖度14度以上の傷もの
糖度14度以上の熟度の低いもの
糖度13度以上の熟度が良く着色が普通のもの
しかないです。

 熟度が低いものは、収穫時はまだ緑色が残っていたもので、時間が経ち緑が黄色に変わったものです。追熟という意味では無いと思うのですが、収穫後に未熟な部分が消えていったりんごです。

ネットショッピングには販売できないような傷ものが毎年出て、それは市場出荷していますが、今年はそちらで平年より少し儲けることができそうです。といっても10箱も出せないかもしれないです。

2020年1月15日水曜日

祖母が亡くなりました。97歳でした。

2019年11月27日に97歳で祖母が亡くなりました。昨日、四十九日が終わったのでブログに投稿します。

ヤフーショッピングの写真では真ん中に映っていました。
この写真で91歳ぐらいだと思います。座って撮影しましたが、一人で歩ける状態でした。少しずつ衰え、亡くなる3ヶ月ぐらい前に脳梗塞で入院し、最後は病院で老衰のように静かに息を引き取りました。

大正11年生まれで、第二次世界大戦時には学校で訓練をしていて、その時の写真が地元の歴史資料の写真に残っていました。

真ん中が祖母です。祖母に見せた時、映っている人の名前を順々に話していました。
  祖母は我が家に農業の技術を持ち込んだ人で、祖父母の代から農家になりました。それまでは違う仕事をしていたそうですが、戦争をきっかけに農業を始めたようです。

 祖父は戦前は国鉄(岩手県盛岡市と釜石市)で働いていましたが、実家の跡取りが戦死して、実家に戻ることになりました。

 西野家の跡取りになってから祖父は祖母と結婚しました。当時の西野家は農家ではなかったそうで、炭焼をしたり、煎餅を作って売ったりしていたそうですが、戦士した兄の子供2人と、実子4人を育てるのに食料が必要ですし、祖母には農業の知識があったので農業を始めたそうです。

 田畑をどの程度所有していたのかわかりませんが、祖母は「マッカーサー元帥は良いことをしてくれた」と話していました。畑を数百万払って地元の人から購入した話も聞きましたが、その畑以外はいつからあるのか分かりません。

 財産のある家ではなかったので、戦後の我が家は貧しい生活だったようです。私の父の兄弟は、学校の帰りに家から持って行った野菜や、親戚が仕入れた魚介類を駅などで売っていたそうです。

 農業の収入が人並みになったのは、私の父が長芋を始めた頃で、それまでは冬は出稼ぎに行かないと暮らせないほどの貧しい農家でした。祖父から父の代になってからも、祖母は体が丈夫で90歳近くまで畑仕事をしていましたが、同い年の祖父が87歳で亡くなってからは元気がなくなりました。祖父母は家族以外の人も知っているくらい仲良し夫婦だったからだと思います。

 89歳の時に、私の息子が生まれて、祖母にとってはひ孫との生活が始まりましたが、少しずつ痴呆が進み、祖父が亡くなったことも忘れて、私の妻子のことも忘れていましたが、亡くなる数日前には、育てた子どもたち6人と、一緒に暮らした私と私の兄弟が病室に集まり、それぞれを分かっているようでした。
 私が祖母の頬を両手で触り、「大丈夫だよ。何も心配いらないよ。」という言うと、涙を流していました。私には姉と妹がいますが、姉妹達が言うには祖父母は私だけ特別扱いだったそうです。昔なので跡継ぎになる男子は大事にされたのだと思います。(そのせいか親は私にだけ冷たいような気がします(笑))

 祖父が亡くなった時は急で、すごく悲しかったですが、祖母の時はやっと祖父のところへ行けて良かったなという気持ちが強く、私以外も悲しんでいる人は少ないようでした。

 祖父母は仲良しだったからなのか、亡くなった日、年にも意味がありました。

 祖母は祖父の命日の一日前に亡くなり、ちょうど10年なので、
  • 三回忌と十三回忌
  • 十三回忌と二十三回忌
  • 十七回忌、二十七回
  • 二十三回忌と三十三回忌
というように夫婦一緒に行うことになります。
 私は病院から祖母の大体の余命を聞いた時に、仲良しだったし、同じ日に亡くなると思い、亡くなる日もりんごの選果作業をしていたわけです。それが1日前だったので「なんでー!?」と思いましたが、土日に葬儀全てを終わらせるにはその日がベストだったようで、そこを考慮してくれたのかなと思いました。

 私の記憶には祖母の苦労している姿は殆ど無いです。私が生まれたころも貧しかったはずですが、何があっても諦めないで良い方法を考える祖母の姿の記憶が残っていますので、祖母は戦後の苦しい毎日から、希望を持つという能力を得たように思えます。
 私にとっては祖母の人生を一語にまとめると「希望」かなと思います。祖父は「想いやり」でした。

 私の息子は8歳なので祖母の記憶が残ると思います。色々なことがありましたが、昨年は足し算のプリントをどちらが早く終わるか祖母と対決していました。2桁の計算だったと思うのですが、祖母はそろばんを使い、息子より早く終わらせましたが、息子が言うには、祖母は名前を書いていないので0点 だそうです(笑)
 息子の記憶に少しでも祖母の姿が残って欲しいと思っています。息子にとっては曾祖母ですが、私が生まれた時には曽祖父母は一人もこの世にいませんでした。貴重な記憶だと思います。

 死後は、過去と未来を自由に移動できるという彗星捜索家の木内鶴彦さんの話が好きで、そうであってほしいと願っています。そして、祖父母に良い未来を見せたいと思っています。